須佐弁天祭と神事



                            


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■ 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)

アマテラスとスサノオが天真名井で行った誓約(アマテラスとスサノオの誓約)の際に、スサノオの剣から生まれた五男三女神(うち、三女神を宗像三女神という)の一柱である。『古事記』では2番目に生まれた神で、別名が狭依毘売命(さよりびめのみこと)であり、宗像大社(福岡県宗像市)の中津宮に祀られているとしている。神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に斎く島の女性(女神)という意味になる。厳島神社(広島県廿日市市)の祭神ともなっており、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされている。

 

弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvat)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。弁天(べんてん)とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。

本来、仏教の尊格であるが、日本では神道の神とも見なされ「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある。

また、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である、市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることも多く、古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。

(出典:wikipedia)

現在、須佐では「弁天様」の呼び名で親しまれ、漁師も又、そう呼んで信仰されているが、本来、古代より須佐之男命との縁強い、市杵嶋姫神の信仰が元となっており、明治時代の政策によって、仏教的呼び名の「弁天」の方が根付いていると思われる。市杵嶋姫の別名「中津嶋姫命」が、島名の「中嶋」の由来とも言われている。

 

 

■須佐最古の祭神

神山起源

市杵嶋姫神(弁天様)は、1700年(元禄13年)6月27日、既に高山(当時:神山)に祀ってあった社殿・御神体を、関が原の戦い後に須佐に移住してきた(第20代益田元祥公の玄孫)第26代益田就賢公が、須佐湾内の中嶋に御遷座(移設)している。元々の高山に勧請されたと思われる古さは、須佐の歴史でも1・2といわれている。

古代須佐の信仰の地として神山神社(現:八相権現社跡地)に、須佐之男命を主祭神として伊邪那美命(イザナミ)も配祀されていたが、この場所、もしくは周辺に、市杵嶋姫神も祀られていたのではないかと推測されている。

神山神社

その神山神社は、古代須佐の中心地ともいわれている「三原」地区(大原本郷)から高山を望むと正面に位置し、又、旅人が参拝できる定設遥拝所が2箇所あったとされ、その一つが三原に「花立」という字名で残っている。その「花立」と「神山神社」跡地は、ピタリと南北に位置し、神社参道も又、南北に伸び、静寂な山間に神妙なる立地となっている。

高山の中腹にある跡地は、小字名を「神山」といい、山麓には御祭田等もあったとされ、やはり小字に「神田」の名がある。鐘楼・御手洗川などの設備も整えた(「鐘楼免の字名もあり」)広壮な経営とみられ、海浜より社殿にいたる間に、華表(鳥居)三基が配置、その柱の土台となった敷石が現在の前地部落(高山の麓)に現存するという。

須佐湾「中嶋」へ

幾多の野火で火災にあい、時代とともに縮小・衰退していった中で、須佐之男命とも縁深く、海の神の崇敬の念・信仰を絶やさないために、須佐に移住してきた益田公によって、須佐湾内に御遷座される。

以来、須佐の海の神として、高山の黄帝信仰(起源は、神山神社の須佐之男命信仰が誤称され替わってしまっという説あり。) と共に、漁民のみならず、住民、航行する北前船などからの信仰を受け続けている。特に、市杵嶋姫神への信仰は、その神事とともに、漁民に強く根付いており、遙か昔の神への信仰を連綿と紡いでいる須佐で唯一最古の信仰である。

 

■海上渡御と大燎と神輿

 

故事 

例年6月21日より22日(昭和29年より、7月27日-28日に変更)に、水海御行宮所に御渡海あり、
御座船一艘(但し漁船三艘を催相一艘として)、これを神輿(みこし)安置の御船とする。又、一艘(これも三艘を一艘にして)花を飾り(俗にこれを花舟という)、この舟にて、正伝神楽の神子舞あり、又、舟歌などをも奏でし奉る。

 

21日(初日)酉の刻(18時頃)、御神霊を神輿にうつし奉る。御供船あまた燈提燎(ちょうちん)を焼きつらね、陸には、参詣の銘々充満し、島々崎々には、大燎(かがり火)をたき、家々の挑灯(ちょうちん)浜辺々々の懸行燈(あんどん)数をしらす。

遠近の山木枝葉顕然として恰白書にことならす。
御舟は中嶋を西口に長磯邊より笠松山を東に前の濱を横切、水海口と御着船あり、それより浦人御鳳輦をかき奉り御行宮に安置し奉る社官祝詞をのり奉りぬ、廿二日中嶋に還幸あり、其義大形昨日のことし。

 

(1842年編纂「防長風土注進案」より)    

補足1
古くは、6月21日-6月22日
その後、7月17日-7月18日
現在、7月27日-7月28日(昭和29年より)

補足2
高山から弁天島(中嶋)へ御遷座・・・1700年(元禄13年)6月27日
弁天島(中嶋)から三穂神社(現在祀られている)へ合祀・・・明治40年(1907年)神社統合

 

還御祭(神幸祭)  ~ 神事詳細 ~

市杵島姫神は、海上渡御(かいじょうとぎょ)の管弦祭(おかげん)で奉仕する。

7月27日18時、三穂神社に祀ってある神霊を神輿に移し、漁師の住む浦町を練り歩く。
浦町の漁師重鎮宅を中心に周ったのち、舟に神輿を移す。

漁師若手を頭漕ぎとして、4隻の和船に分乗、櫓漕で引航する。
編成は、
先頭漕従4隻 — 一ノ字船 — 二ノ字船 — 鳥居船 — 花船 — 御神船(御神輿船)と続く。
花船では笛・太鼓・鉦の音で囃子、男児2人が古式の女装で、神子楽を舞う。
神船では、舟歌を独特の節廻しで謳われる。
湾内を大きく三周し(反時計回り)、
旧社地のある弁天島(中嶋)の御旅処にお移し奉る。

7月28日、弁天島(中嶋)に、お迎えに上がり、湾内を三周したのち帰港する。
ここで、盛大な花火大会が催され、神の帰港を祝い、神事を盛大にしている。
花火が終わると、漁師若衆による暴れ神輿が浦町を練り歩き、激しい霊ぶりで、神霊の加護を振りまく。
三穂神社に帰り、祭殿にお戻り頂く。

 

■400年歌い継がれた船歌

 

播磨声船歌の伝承 

播磨節の一派と見られるが、語節は出所不詳。

旧領主「益田家」の毎年新年宴会において船歌楽の家系十人を招き、御前にてこれを謳ったという。
※(歌の中の「御座船」とは、明治初年まで所蔵していた毛利家拝領のやかた舟を指す。)
※(歌詞「須佐の入江」は、益田家二十代当主 益田元祥(ますだもとよし)作と言われている。毛利輝元公が防長二国に所領を減じられた時に、徳川家への誘いを蹴って毛利家に従い、永代家老として須佐に移り住んだ、益田家最初の須佐の領主。

船歌は、楽譜もなく、独特の節廻し(語節)も、1番から7番までの歌詞の全てが違い、それを歌楽の家系数氏が代々継承してきたが、維新後、新年会の催しがなくなると、これを継承しているのは、弁天祭での神事だけとなっていった。

歌楽の家系としては、大賀氏を始め、中野氏・川嶋氏・井村氏など数氏現存していたが、御節の継承は途絶え、近年、故松永宮司を最後にほぼ全容を継承していた方はいなくなった。

継承の特殊性が断絶の危機に

弁天祭の神事「海上渡御」では、最後尾の「神船」に神輿や宮司と共に、古老の漁師重鎮が乗り船歌を歌うが、現在、船歌「須佐の入江」の歌詞1番~7番までの中、3番までしか、語節の継承はされていない。

又、神事自体海上で行われるため、住民の誰も聞くことは出来ず、若手・中堅漁師さえも、神船にのることは出来ないため、同様に聞く機会もない。女人禁制の神事であるため、漁師の家族でさえ全く知られていない。 行政機関・民間の郷土史家でさえ、漁師の伝統に敬意と遠慮もあった。

そういった特殊性もあり、極近年まで、記録を取ることも、第三者が継承を憂うことすらもできていなかったため、最早、伝承が途絶えかけているのが実情である。

船歌 歌詞「須佐の入江」

(一番)

『天津風 枝をならさぬ時代にて、四海の波の静かなる 春の海辺に飾りたてたる御座船は、緞子、紫、綾錦をこきまぜて、咲きみだれたる山桜。守る人もなき室島の、柳の糸、たてとなりなば横島や、右に見えたる御山は』

(ニ番)

『うやうやしくも弓矢八幡大菩薩、豊前のくにの宇佐よりも、移らせ給い、宮居まします跡なれば、いとど尊き山とかや、此処をば八幡が浜と名付けたり、されば宇佐の呉音にて、それより須佐と申すなり。君が千年を松島や、浪のあわひをくくり岩、湖水にうつる月かげも、実に面白きその気色あり』

(三番)

『二夜三日の酒もりは、今がさかりの和田が崎、たちて行ふもの鵜の瀬へも、船えびす、いはばさそう福富や。南の山はかげが城、人に情けをかける要害、むかし神威の告ありて、一つの城を築きしに、谷川を下すソマギを誰とむる人もなけれども』

(以降7番まで続く)


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