🪶須佐唐津焼をもっと深く知る🪶

🐉「須佐唐津焼」とは一体何なのか?🐉

🔥須佐唐津焼🔥

〇須佐唐津焼は室町末期には存在したと言われている歴史ある焼き物です。

もっとも盛んだった時期は江戸時代で、益田家が毛利氏の永代家老として須佐に移ってきた時期です。

その当時は唐津焼全てを御用焼物として、益田家に納め、藩内外、北前船によって藩外遠く東北地方まで

売られました。そこから隆盛は明治中期まで続きました。

そして、明治4年廃藩置県が公布されると、陶工が自由に焼物を販売できるようになったため販路の拡大を

図りました。その当時注文が圧倒的に多かったのは祭具で、中でも「かわらけ」が多かった。

 

🧬ルーツ🧬

※ルーツにいくつか説があります。

高麗(朝鮮)から渡来した説

昔、朝鮮から陶工が直接須佐に渡来した。そして、土谷六郎右衛門と改め、唐津焼物を始めた。

備前・瀬戸から移住した説

伊藤家古文書によれば、「当家の性藤原其先備前の国牛窓村より出てたりと口云う」とあり、備前から移住したという説。

九州唐津から移住した説

土谷家家伝には、「私共の祖先は遠く桃山時代に高麗より来国し、初め田原道仙と称し肥前国唐津に於いて

開窯したが、事情あって諸国遊歴の旅に出て長門国須佐郷に至り、此処に永住の目的で窯を築き製陶に励ん

だところ、その作陶は領主益田公の目にとまり、御用窯として取立られ、特に土谷の姓を賜って土谷鹿郎衛

門と名乗り須佐唐津焼の名を世に広めるに至った」とある。

1680年ごろ萩焼の始祖である坂家2代の弟が、須佐唐津焼きに来た説

 

🤔有名なエピソード🤔

その① ~”関ヶ原の戦い”「毛利藩と益田氏」~

関ヶ原の戦いに敗れた毛利藩、そして毛利藩であった益田氏。

関ヶ原の戦いの勝者である徳川家康は益田氏に対して「君は優秀だから、そのままその土地を納めてくれ」と言った。しかし益田氏は「私は毛利様に従います。」と言い、家康の要望を拒んだ。

その一連の出来事を知った毛利氏は益田氏の心意気に感動し、益田氏を永代家老にした。

そして益田氏は須佐に移り、そこから須佐唐津焼は栄えていきました。

 

その② ~毛利誠姫の嫁入り~

毛利誠姫が、毛利重就の養女として松平肥後守へ嫁がれた。

この時、毛利重就は嫁入りの贈り物として陶器を坂家に作るよう依頼したが、その時の坂家の陶工はまだ幼かったので、須佐領主の益田氏19代益田就祥を伝って伊藤家に須佐唐津焼を作るよう依頼した。そして、出来上がった陶器を萩本藩へ送ったところ、毛利重就は大いに喜んだ。重就は伊藤家を長技工として本藩の御用陶工士にすると益田氏に言ったが、益田氏は「必要な時はいつでも作らせますので。」と断った。送られたのは風流な置物や壺などであった。

 

📜須佐唐津窯の研究史📜

✏️調査までの経緯

須佐に古くから伝わっている焼き物の中には、朝鮮や中国に見られる古青磁かとまがうような作品が見ら

れ、また、「古須佐は青磁なり。」という言い伝えが古くからあった。かねてこのようなことに疑問と関心を

抱く人々が町民の中にあって、常々こうした問題について議論を交えていたのであるが、こうした有志が集

まって、実際に窯跡などを調査して見ようという話が持ちあがったのである。

 

✏️調査

昭和三十八年五月、日本陶磁協会理事で、大阪陶磁研究所長の保田憲司氏を招き、須佐焼の伝世品等をみて

もらったところ、古須佐には萩手法は全くみられず、むしろ、九州唐津や瀬戸、備前の手法がみられた。

また、同部落に伝わっていた青磁品を須佐製品として陶磁研究会に出展したところ、それらは全て「朝鮮か

中国からの渡り物だ」と一笑されたが、かえってそれは須佐焼の価値を裏付けるものとなった。その後町文

化財審議会と前記有志で須佐唐津焼調査委員会を作り、窯跡や灰原の実施調査に平行して、文献、古文書

、寺の過去帳や墓碑、古老の言い伝え等の収集、事跡や遺跡の調査も併せて行われた。